スマホ時代の哲学―失われた孤独をめぐる冒険―
著者: 谷川嘉浩 / 読了:2025.11

■ 核心となる一言
「常時接続の“寂しさ”から逃れるためにスマホを貪るのをやめ、あえて“退屈”や“未解決の謎”を抱え続ける。何かを作り、書くという『趣味(自治)』を通じて自分の中に他者を住まわせることこそが、真の孤独と自律を取り戻す道である。」
■ 重要ポイント
「寂しさ」と「孤独」の決定的違い
寂しさ: 自分を抱えきれず、他者に依存して「つながり」を求める、自意識が肥大した状態。
孤独(自己対話): 自分の内側に他者の視点を持ち、一人の中に二人いる状態で思考すること。
「ネガティブ・ケイパビリティ」の重要性
すぐに答えを出さず、不確実な状況に留まる能力。タイパや一問一答を求める現代において、効率の悪い「謎」を自分の体温で温め続ける姿勢が、精神を成熟させる。
「書く」という行為による自己の二重化
頭の中にあるものを外側に定着(外化)させると、それは「よそよそしい他者の言葉」になる。「書かれた自分」を「書き直す自分」が客観視することで、初めて摩擦(=真の思考)が生まれる。
さっと体得できる程度のことは、SNSに任せて、読書では時間をかけて理解を深めることを楽しみたい。
不安とうまく付き合うのがどうしようもなく下手な私たちは、激務に没頭することで、自分自身から逃げている。
愚か者は、自ら疑うことをしない。自分を分別豊かな人間だと思っている。己の愚かさに居直っているので、うらやましいほど落ち着き払っている。
→現代人は疑いを他者に向けても、自分には向けようとしないので、何の動揺もなく、安穏と暮らしている。
私たちが疑うべきなのは誰かの常識ではなくて、何よりもまず、自分の常識のはず。
どんな些細な変化も見逃さずにいようと静かに耳を澄ませ、どんな対策をしても絶対はないと疑い、自分だけは大丈夫などと思わず、安易な判断や決めつけを避けて、いろいろな人と協力し合いながら警戒を続ける。
→世界や他者への関心を失ったり、自分の考えや判断への批判精神を忘れたりしたときに、私たちは、ゾンビ映画で早々に退場していく人みたいな愚かさを生きています。
満足に至るまで時間がかかるもの、必ずメリットが得られるとも限らないもの、満足を得るには色々と学ぶ必要があるもの、精神的時間的コストがかかるものが見向きもされなくなり、前提知識がなくても誰でも乗っかれる直感的に共感されやすいものが話題にされ、社会の前景を占めている。
(ニーチェをハンバーガーのように読もうとする)
謎や問いには簡単に答えが与えられぬほうがいい。不明のまま抱いていた謎は、それを抱く人の体温によって成長成熟し、更に豊かな謎へと育っていく。一段と深みを増した謎は、底の浅い答えよりも遥かに貴重なものを内に宿している。
自力思考が生み出すのは、平凡なアウトプット。
→自分がすでに持っている考え、先入見を再提出しているにすぎない。
カイドウ「一問一答で動いちゃいねぇんだ世の中は!!」
→どんな知識も使い所や使い方と一緒に学ばなければ仕方が無い。
チェリーピッキング…都合のいい箇所だげを拾うこと。
想像力の豊かさ=自分の内側に他者を住まわせていくこと。
他者の思考を学ぼうとする時、ひとまずは相手のノリ(想像力)に沿って学ぶべきだ。
→想像力の異質さを消してしまわないように。
「どんな風に言葉が使われているか」に注意し、その通りに使えるようにしようと思い文章を読む。
常時接続の世界において生活をマルチタスクで取り囲んだ結果、何一つ集中していない希薄な状態。
「つながっていても一人ぼっち」
常時接続の世界で失われたもの。「孤立」と「孤独」。
他者から切り離されて何かに集中している状態と、自分自身との対話している状態。
いろいろなコミュニケーションや感覚刺激の多様性が一つのことに没頭することを妨げてしまっている。
アテンションエコノミー…情報の内実や質よりも、人の注目それ自体が価値を持つこと。
スマホがあるだけで会話での共感レベルが下がり、話題がスマホに左右される恐れがあり、自他の感情や心理状態への注意が削がれかねない。
「一人であること」を「孤立」「孤独」「寂しさ」の三様式に分類する。
1. 「孤立」 何らかのことを成し遂げるために必要な、誰にも邪魔されずにいる状態。
「孤独」 沈黙の内に自らとともにあるという存在のあり方。心静かに自分自身と対話するように思考しているということ。
「寂しさ」 いろいろな人に囲まれているはずなのに、自分はたった一人だと感じていて、そんな自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態。
「私たちが孤独の恩恵を受けようとしないのは、孤独になるために必要な時間を、活用すべき資源と考えるからだ」。
「ソーシャルメディアを最大限利用する人達は、自分自身の感情を含めて、人間の感情をなかなか読み取れない」傾向にある。
ネガティブ・ケイパビリティ…不確実性や疑念、未知の状況の中に留まり、すぐに事実や答えを求めずに、その状況を受け入れる能力。生み出しつつあるものを安易に意味づけて特定の位置に落ち着け、単一のイメージに追い込むようなことをしないために必要な力。安易に対象を把握できると思わないこと、自分は完璧でないと疑う姿勢。
話題の出来事に「居合わせること」の価値が高まっている。場所ではなく時間の共有。
仲間はずれになることや、何かを見逃すことも怖いから、居合わせなければ、時間を共有しなければと恐怖しながら生きている。FOMO。
居合わせることの価値の高まりがFOMOを生んでいるのだから、話題や流行や人気に乗遅れまいとすることは、FOMOを消すどころか加速させてしまう。
ソーシャルネットワークに時間を使えば使うほど幸福感は減退している。
常時接続こそが、心理状態に集中するための孤立を奪い、それを掘り下げていくための自己対話の機会を奪っている。自分や他者の感情や感覚を繊細に理解しないための訓練を日夜積んでいるような、そんな危うい道を歩いている。
他者といるように自分自身といる。他者の視点が排除されるどころかむしろ積極的に必要とされる。
「趣味は孤独を持つことに通じる」「注意の分散に抵抗せよ、趣味を持て」。
こちらが「何か」を見るだけでなく「何か」のほうが自分を見ているような感覚。
→創作の過程にある模索や探索を通じて、いろいろなことがわかり、自分が育っていく。
理解を深める上で私たちが向き合うべきは、作り育てている物の他者性。
→何かを作る育てる趣味が有利なのは、物を介して、対話を持つことができる。外化されたものに媒介され、いろいろなことを感じ、考えていく中で、自分の作っているものの意味や方向性(創作ビジョン)が明確化され、ひいては自分自身のこともわかってくる。
漠然としていた目標や関心、テーマが、繰り返し書き直し、捨て、繋ぎ合わせ、再編成するという探索プロセスの積み重ねによって、次第に明確な方向性を帯びていく。
「書く」ことが意義深いのは、いったん外側に定着した言葉が、自分の言葉でありながら他人の言葉のように、よそよそしくなるから。
「書かれた私」と「書き直す私」これが「1人の中に2人いる」に繋がる。
書くとは自分に向かって何かを言うことであり、自己が二重化している。
「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に気晴らしを求めるのも、自分の家に喜んでとどたっていられないというだけのことだからである」。
→あらゆる活動や交流は、人間の抜がたい退屈や不安から目を逸らすための「気晴らし」なのだ。
→人間の文化的な活動は、総じて、こうした根源的な倦怠を忘れるために体系的に構築された気晴らしにすぎない。
→「倦怠」が心の底に根を張っている、それが人間という生き物であり、私たちは「気晴らし」によって普段それに蓋をしている。人が何かに夢中になり、没頭しているように見えても、それは寂しさに駆られた結果であって、孤独が伴っていないかもしれない。
他者は、ノイズであるどころか、自分という庭を豊かに育ててくれる。自分の多声性を作る契機は、自分の外側に、つまり他者の側にある。
自己啓発文化の影響で自分の内側にばかり関心を向けすぎた結果、私たちはかえって自分を見失っているのかもしれない。
「人間が言う『本当にやりたいこと』なんて、いまの自分がたまたま、一時的に、それが一番いい状態だと勘違いしている幻想でしかない」。
私たちは、変化と成長を要求し続ける現代の文化につらさを感じながらも、考えすぎると憂鬱になるので、動画や写真、音楽やアルコール、ソシャゲ課金、コミュニケーションの断片を過剰摂取し、酩酊や昏睡にも似た状態に自分を置くことで、違和感や虚脱感をやり過ごしている。
動揺をなかったことにしたり、不安を忘れたりするという目的で、スマホからの刺激を入れ続けることを(快楽的ダルさ)を止めたほうがいい、あるいは退屈や不安、何か足りないという気分に、時々は身をさらすことをやってみたほうがいい。
誰かと一緒にいる時、私たちは自分の外側にあるルールに従うことで自分の行動を作っているが、それはそれとして、自分で決めた通りに自分で動くことも大切ではないか。
スマホで得られる刺激や繋がりの〈裂け目〉に立ち現れる退屈や寂しさ、何か足りないという感覚と対峙する時に必要なのは、遊戯的で自治的な態度だ。
理解は常に不完全だからこそ、知ろうとすることに終わりはない。それこそが、人生を面白くしている。
寂しさ、「自分は一人だと感じて誰かを求める気持ち」敵意や攻撃系もまた、その他者に対する強い依存。嫌うことや非難することも寂しさの発露。
寂しさに振り回される時、私は一人ぼっちです。他者を依存的に求めることに駆り立てられているので、自分の心から多様な声が失われて、たった一つの声だけを発する一枚岩の人間になっている。
自分を相対化する要素が自分の内側にない。
だから、自分の中にある目立った声を反響させ増幅し、自分の内側ばかり気にするか、他者の声に飲み込まれてそれを自分の声と同一視するかといった事態になりかねない。
スマホが可能にするマルチタスクや諸々のつながりは、こうした自意識を刺激し、増大させるところがある。
自己関心的で自己完結的なモードに対置したのが、孤独や孤立であり、それを可能にすると目される「何かを作る、何かを育てる」という趣味であり、延々と書き直すことであり、退屈や欠如の気分であり、抑鬱ポジションであり、情緒的内実を持つことであり、「指先に目を奪われるな」であり、自治であり、自分の頭で考えないことであり、想像力を豊かにすることであり、自分の中に他者を住まわせることであり、ネガティブケイパビリティであり、終わらない探求を続ける冒険的な好奇心です。
趣味は、捉えどころのない謎との対話を通じて、「1人の中に2人いる」状態をもたらす可能性がある。
※「いきなりパブリックにつながってばかりいずに、プライベートな享楽をしっかり追求することも必要なんじゃないか」。
孤独を直接の目標にするのではなく、別のことに取り組んでいるうちに間接的に孤独が選べるという運びで思考を進める。孤独はあくまで副産物。
思考(自己対話)は、複数の自分との対話、言い換えると、異質なものを隣り合わせて〈摩擦〉を生じさせることです。
〈摩擦〉によって認識や思考の道筋を変えさせられたとき、新しい視点や行動は生まれるもの。引っかかりなく流れる滑らかな状態では、考えの精査や、別の可能性への創造が生まれません。
何かを学ぶ最中は、邪魔されることなく集中しなければならないので、このときにも孤独は不可欠。
見逃されがちなのが、学んだ後に必要な孤独。
わからない 難しいと感じるとき、自分には摩擦や消化不良が起きています。孤独の時間は、それを反芻処理して許容可能なレベルに馴染ませる働きもある。
自分の中に複数の考えがあり、揺らいでいることを乗り越えるべきものと見るのではなく、目指すべきものと見ること。特定の世界観、考えのパッケージ、党派性に絡めとられず、割り切れない部分を心に留める姿勢。ネガティブ・ケイパビリティはそういう自己に育ちます。